無題

オタクとは現実の人間以外に恋をしてしまった人間である、という話を聞いたのは、いつのことだっただろうか。

人間の異性に恋をした人間は「正常な人間」で、人間の同性に恋をした人間は「同性愛者」と呼ばれる。それ以外の「もの」、例えばアイドルに恋をしてしまった人間は「アイドルオタク」、モニターの中の少女に恋をしてしまった人間は「アニメオタク」、銃器に恋をしてしまった人間は「ガンオタク」、切手に恋をしてしまった人間は「切手オタク」である。世の中はかくも性異常に満ちている、というわけだ。

このような思想のもとでは、人間同士の恋愛関係と、オタクとその恋愛対象とを結ぶ恋愛関係は同等に扱われる。つまり、「アニメオタク」が現実の人間と交際を始めることは「浮気」であり、彼女を持つ男性がアイドルにうつつを抜かし、交際相手のことを忘れてしまうことは「心移り」であると解される。実際、このような理由で他人との交際を断るオタクも多いと聞く。

ならば、と思う。日本各地に溢れかえる、百合を愛する百合男子たちは、一体何に恋をしてしまったのだろうか。彼らは女性同士の同性愛行為を好むが、決して自らがその女性を手に入れたいとは願わない。矛盾した欲求を抱えた彼らの恋愛対象は、同性愛に及ぶ女性たちそのものではないはずだ。百合男子の本質とは一体何なのか。

実際、百合をこよなく愛し、百合男子を自他ともに称する友人にも、それはわからないという。私の中にも百合を好む気色が幾ばくもないとは言えないが、その志向がどこに向かっているのかと問われれば心許ない。結局、百合男子はひどく曖昧で抽象的な一概念を愛しているに過ぎないのか。百合男子は穏やかに燃えるような恋をして、叶わぬ願いを抱き、静かにその恋を終える。その儚さこそ、百合男子の本質なのではないだろうか。